IT社会の行方とネットワーク社会
〜「二つの世界」を往還的に生きる〜

情報処理教育財団機関誌 96 2001 JULY

●“生活の一部”となった情報ネットワーク社会
 IT社会や情報ネットワーク社会が、“ようやく”立体的な厚みをもちなから歴史実態を伴うメディア経験として定着しつつあるようにみえる。20世紀の最後の四半世紀に、ニューメディアブームや高度情報社会として語られてきたものが、目に見えるカタチやシステムとして定着してきたともいえる。
 情報技術も、情報社会も、私たちの仕事・家庭・私的生活のなかで、日常的な景観として定着したことが、“今度はホンモノ”と確信させてくれる。@産業・政府・マスコミが総体として情報化の必要・夢を語り、そのイメージが国民的に受容されてきている点、A家庭生活・個人生活のレベルでの情報化が焦点となってきている点、B技術革新・インフラの整備・制度改革という条件が成熟してきている点など、情報化の立体的な厚みがこれまでとの差である。
 こうした中で、とりわけ強調しておかなければならないのは、従来の仮想空間や、サイバースペース、ヴァーチャル・リアリティといった言葉が醸し出してきた、“特別な空間”イメージ、虚構の、別世界の、非日常的な空間といった誤ったイメージがようやく修正されつつある点である。ヴァーチャルには、そもそも「実質上の」という意味もあり、「仮想」と訳すこと自体が誤訳であったと指摘されることも多い。(私は、人工的に構築するという意味で、「架構」「擬制」という意味で考えたほうがいいと思っている。)つまり、サイバースペースは、極めて人間である私たちが営み、対面的なリアルとは異なるが、確実にひとつのリアル生活な世界である。そこには“ふつうの人間”がいる。この当たり前のことが、意外に忘れられがちである。

●メディアとは、私たちを魅了し、惑乱させるもの
 ただ、今回の新しい電子メディア経験は、パーソナルな表現やコミュニケーション活動を押し進めてきているだけに、を少し厄介な面をもっている。情報メディアというのは私たちが被る“情報化した身体”や“着ぐるみ=メディア版の自分”と考えるとわかりやすい。人は、身体的な自分や、社会制度のなかで役割を演じている自分から離れ、情報ネットワーク空間のなかで、〈メディア版の自分〉をもった途端、そのあまりの“解放性”に酔いしれてしまう傾向がある。たとえば、鏡もまたメディアであったことを思い起こせば、この“酔いしれる”という感覚はわかりやすい。メディアというのは、個々人の欲望を歪んだかたちで肥大させたり、情報空間に対して過度の期待をもたせたりする。情報ネットワーク空間では、メディアが本来もっている感覚惑乱の装置の側面が闊歩しだしている。つまり、メディア利用の現場では、人々の潜在的な欲望を喚起しする装置、惑乱装置としてのメディアが力を発揮して、日常的な秩序世界に挑戦していく側面がある。
 つまり、メディア空間というのは、まぎれもなく“ひとつの生活空間”ではあるが、対面的な世界とは異なる文法をもっている。例えば、「メディアの中だと素直なれる」とか、「メディアの中だと、いい人にみえる」という感覚を与えてしまうような幻想付与力をもっている。声だけとか、文字だけのことを、対面的・身体的な存在と比較して〈制限メディア〉という。この〈制限メディア〉の利点は、自分のイメージを自分で構築しやすい点である。面と向かい合う対面世界の“緊張感”から解放される分、人は正直になれる(厳密には、正直になったと思いこめる)が、同時にそれはウソがつきやすい世界でもある。
 さらに、メディアが備えているこの誘惑力は、他方で、「メディアの空間の中では、何をしても許される」、「対面とは異なる作法で生きていいのだ」、「メディアの中の事だから、悪いことをしても許される」とも思わせてしまう。ヴャーチャル=“仮想”=“虚構”だから、何をしてもいい。この“逆転した秩序感覚”は、なかなか消えない。周知のように、パソコン通信から始まりインターネットに至る情報ネットワーク空間では、ケンカ(フレーミングという)が耐えない。あるいは、プライバシーの侵害や、システムへの悪意ある攻撃、アンダーグラウンド的な違法行為が耐えない。出会いサイトを利用して、犯罪を犯す行為も繰り返し起こり続けている。
 このように、情報ネットワーク空間は、やっかいなことに、美しい世界イメージと醜い世界イメージという矛盾する二重のイメージ、つまり両義をもった世界である(と了解されてしまっている)。

●情報“縁”=ネットワーキングの2つのベクトル
 情報ネットワーク社会のネットワークたる所以は、このネットワー“キング”(関係形成=結節性)という特性にある。そこで形成される社交空間は、関心のコミュニティとか話題のコミュニティといわれるように、利用者の関心に応じて形成される社会的世界である。戦前に日本を代表する都市社会学者の鈴木栄太郎は、都市を「結節機関」と名付けた。それは、農村型社会から都市型社会に入った新しい社会関係のありようを表現する言葉だった。ネットワーク社会は、まさしくこの「結節機関」である。そこでは、都市社会のもつ、「匿名的」な人と人が自由に結節し、「縁」(えにし)が選択的に構築される。この「情報という縁(情報縁)」に応じて形成される話題のコミュニティは、「ネットワーク・コミュニティ」と名付けられている。
 従来の「地域コミュニティ」という言葉が、ある地理的範域に限定され、かつ閉鎖的な感じのあるのに対して、「ネットワーク・コミュニティ」という語には、グローバルで解放的な横型社会のイメージが託されてきた。それは、キリスト教的な予定調和的世界の具現化でもある。ネットワーク空間での住民は、「ネットワーカー」「ネッター」「ネチズン(ネット+シティズンの造語)」と言われたりもする。インターネットの歴史と未来を描いた『ネチズン』(1997)において、マイケル・ハウベンとロンダ・ハウベンは、「地球上のどの人々とも隣同士に住んでいるようなものです。地理的に断絶していても、同じネットワーク上の空間を共有できれば問題ないのです」とその文明史的意義を高らかに唱う。また、こうしたネチズンの、ネット空間上でのコミュニケーションの作法や儀礼として「ネチケット(ネット上でのエチケット)」という語も生まれた。
 ネット空間は、こうしたグローバルな結節の方向をもっているとともに、他方で、限りなく“極私的な結節(ムラ社会)”を求めるという方向をももっている。メール交換や個人ホームページ付随する小さな掲示板の世界は、グローバルではないが、ある意味ではとても暖かい、疑似ホームのような「居場所」を形成している。自分の人生の悩みを語り合い、自分を受け入れ、再スタートのための言葉と力(エンパワー)を与えくれる。こうしたささやかな社交世界では、あまりケンカは起こらない。それは、他者を無限に承認し受容するという特性が働いているからである。その代わり、徹底した討議もまた生まれない。参加者が求めるのは、人生の主人公としての〈私〉への自己承認だからである。
 メール交換を経験すると気が付くことだが、継続する秘訣は、相手をストレートに批評したり非難したりしないことである。カウンセリングのように、ただただ相手の人生の語りに寄り添うことである。メール交換や小さな掲示板のもつ、こうしたカウンセリング的な力は、ネット理由のもうひとつの大きな魅力として私たちを誘惑してやまない。
 この小さな癒しの空間も意味のない空間ではない。その一方で、その小さな社交空間、いわば電子ムラに充足してしまうこともできる。ネットワーキングが、世界市民の形成装置という方向で作動していくのか、小さな自己承認装置に止まるのかは、実は、情報技術の課題でなく、“市民教育の課題”である。この意味では、情報技術教育は、社会参加への教育とリンクし、セットとして考えられる必要もあろう。もちろん、NPO やNGOのような市民の社会参加活動の醸成は、インターネット空間のなかで具体的にイメージし、実感することもできる。その点では、情報ネットワーク・システムは、生きた教科書ともなる。市民感覚・市民教育と情報ネットワーク教育との融合が求められる所以でもある。
 
●「二つの世界」を生きる技法
 情報ネットワーク社会については、もう一つ忘れてならない点がある。それは、ネット世界は、ネットの中だけでは完結しないことのほうが“ふつう”である点である。たとえば、先に述べたこの小さな掲示板コミュニティやメール交換は、ネット上の“文字による親密な関係”だけではなく、すぐに対面の世界に環流してくる。つまりオフ会(オフライン、つまり実際に会う)を経て、実際の“親密な仲間”を形成していく。もちろん、出会いサイトがきっかけで引き起こされる様々な事件もまた、そうした“文字面での親密さ”と“実際の親密さ”とのバランスの崩壊になかで起こってくる事件であることが多い。言い換えれば、それはメディアの幻惑力、メディアの野生的魅力が、ネガティブな方向で悲劇的に作動した結果でもある。
 くりかえすが、IT社会や情報ネットワーク社会は、ともすれば、効用やビジネスの可能性だけが語られ、“生々しい人間”の世界である面が忘れられがちである。また、「ネットワーク・コミュニティ」の理想に目がいく一方で、メディアという衣を被ることの解放感からくる「メディアの中では何をしてもよい」と思いがちな傾向があることは見過ごされがちである。情報ネットワーク社会の、マスナス面、ネガティブ面は、いつも、ネットの“闇”といった言葉で片づけられてきた。これは、闇ではなく、対面でないこと、あるいは、自由に人と人を結びつけてしまうシステムからくる構造的な問題なのである。
 対面的な日常世界とネットワーク空間との関係は、「二世界問題」と名付けられている。この両者の“関係”そのものは意外に注目されない。ネットワーク社会と実り豊かに付き合っていくためには、私たちは、日常的な対面・身体世界とネットワーク世界とを、“相互浸透”的な世界としてワンセットとして理解していく必要がある。
 この「二世界問題」にどう取り組んでいくかは、これからの重要な教育・政策課題となってくると思われるが、最後に、情報社会に関する教育という側面に関連しては、具体的な3つの方策を提起しておきたい。
@.制度的規制の社会的認知:ネットワーク空間は、虚構の空間ではない。現実空間での制度的規制のコントロールを受けるわけである。この制度的規制の社会的認知や徹底は、これからの情報教育のひとつの課題である。
A.ネットワーク上のマナー教育:ネットワーク空間は、何をしてもよい空間でなく、人間相手の、責任の伴う空間である。文字コミュニケーションの先には、生身の人間がいる。その意味では、メディアという衣を被っているとはいえ、社会的儀礼・マナーの技法が必要となる。こうしたマナー教育には、良識的で暖かい小さな掲示板への参加体験などは、ネット入門において多いに役に立つだろう。
B.リスク回避教育:ネットワーク空間は、人と人を“結節”する。つまり知らない人と“出会い”空間でもある。そこは、一気に文字という〈制限メディア〉によって構築された〈表現上の親密さ〉が始まる世界である。そして、そこから、実際の親密な友情や恋愛、あるいは結婚へと結びつくケースも少なくない。しかし、他方では極めてリスキー事件・性犯罪も起こる。ある意味では、インターネットや携帯電話の低年齢化は、こうしたリスキーな空間に子どもたちをストレートに晒すことを意味する。メディア・コミュニケーションに係わるリテラシー教育、いわばリスク回避・リスク管理の教育は、まだ疑似時日程にもあがってはいない。確かにリスク回避は、社会的なコミュニケーション経験の蓄積の問題であることを考えれば、教育として扱うことは難しい。しかし私たちは、情報ネットワーク社会の中で、他者と“結節”する魅力から逃れることはできない。その意味では、情報ネットワーク空間を生きるサバイバル技法の必要性だけは確認しておきたい。