写真 |

壁1

壁2
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概要 |
建立年月日:2016年5月14日
建立者:北海道慰霊碑建立委員会
規模:碑石 高さ163.5㎝・横幅48㎝・奥行き24.5㎝
壁1左 高さ71.5㎝・横幅95㎝・厚さ7㎝
墓碑板1 縦4㎝・横18㎝・厚さ1.5㎝
壁2中央碑石 高さ70㎝・横幅191㎝・厚さ8㎝
壁3右 高さ71.5㎝・横幅94.7㎝・厚さ7㎝
墓碑板2 縦4㎝・横18.5㎝・厚さ1㎝
墓碑板3 縦4㎝・横18㎝・厚さ1㎝
台座 高さ38㎝・横幅197.5㎝・奥行き110㎝
碑板1左 縦20㎝・横55㎝・厚さ0.1㎝
碑板2右 縦20㎝・横54㎝・厚さ0.1㎝
墓碑板には、氏名(日本語)・氏名(キリル文字)・生年月日・没年月日が記載されている。
共同墓所の概要については日本サハリン協会のHPに記載されている。
(https://sakhalin-kyoukai.com/bosho/index.html)
2022年8月17日調査 |
碑面 |
(碑柱正面) 〔鳩が二羽の絵〕
(壁2中央碑石右)
一九四五年(昭和二十年)八月、日本の敗戦によって、樺太はソ連の統治下におかれ
サハリン州となりました。日本人住民は一九四九年にかけて主として北海道に引き揚
げましたが、このときに様々な理由で残留を余儀なくされてしまった多くの人々の
帰国は、その後の東西の冷戦構造によって不可能になりました。また、戦前は日本国民
とされていた朝鮮人は、日本人の家族や仲間として苦楽を共にした人たちもいましたが、
日本人ではないという理由で全く顧みられない状態のまま残留生活を強いられました。
一九五六年の日ソ共同宣言以降、一部の人々の帰国は実現しましたが、その後もサハリン
に残された人々は政府の援助の手が差し伸べられないまま、いつの間にか「戦時死亡
宣告」で処理されていたり、一方的に「自己意思残留者」として放置されていたのです。
戦後四十五年を経て、民間支援団体の手助けを受け、サハリンだけではなくロシア極東の
ハバロフスク、ウラジオストク、さらにシベリア、カザフスタン、ウクライナなど大陸各地に
身をひそめていた日本人が、ようやく祖国に一時帰国できるようになり、さらにその数
年後からは永住帰国も果たせるようになりました。稚内をはじめ日本の港に着いたとき、
帰国者たちは幼い頃におぼえた唱歌「故郷(ふるさと)」を、涙を流して合唱した
ものでした。
そしていま、多くの人々の支援により、ここふるさとの地に共同墓地が完成し、苦難の
中でともに支えあった人々が安らかに永遠に眠る場所が確保されました。墓所はまた、
サハリンはじめ、シベリア、カザフスタンなど各地に葬られた方々の魂が、寄り集まって
語り合うことのできる慰霊碑となることでしょう。この墓所が、再び憎しみ合いや戦争、
悲惨な家族離散の起こらないことを願う永住帰国者とその子孫、それに日本の心ある
仲間たちによって、永久に心の支えとして存続するように願ってやみません。
二〇一六(平成二十八年)年五月十四日 日本サハリン協会
(墓碑板1)〔40名記載〕
(墓碑板2)〔14名記載〕
(墓碑板3)〔 名記載〕 |
所在地 |
北海道札幌市南区藤野 藤野聖山園内 |
地図 |
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