写真 |
↑少年護郷隊之碑 護郷隊沿革史と戦没者名、碑の建立経緯が刻まれた添碑↓ |
概要 |
建立年月日:1957年
建立者:第一護郷隊隊長村上治夫
規模:本体 高さ188㎝・横125㎝・奥行き62㎝
台座 高さ65㎝・横290㎝・奥行き201㎝
添碑本体左 高さ115㎝・横169㎝・奥行き105㎝
添碑本体右 高さ89㎝・横45㎝・奥行き62㎝
本体左碑板 高さ83㎝・横152㎝
本体右碑板 高さ25㎝・横35㎝
添碑左台座一段目 高さ2㎝・横172㎝・奥行き105㎝
添碑左台座二段目 高さ19㎝・横190㎝・奥行き115㎝
添碑台座三段目 高さ未計測・横279㎝・奥行き129㎝
添碑台座四打目 高さ未計測・横279㎝・奥行き131㎝
2021年12月27日調査 |
碑面 |
(本体正面)少年護郷隊之碑
(本体裏面)赤き心て断じてなせば
骨も砕けよ肉また散れよ
君に捧けてほほえむ男児
村上治夫謹書
(添碑本体左碑板)少年護郷隊沿革史
太平洋戦争の末期戦況の緊迫に伴い沖縄島が皇土防衛の
第一線となるや昭和十九年十月十五日勅令に基づき第三遊
撃隊通称護郷隊を編成す隊員は国頭郡に在住せる十七十
八才の第二国民兵を防衛召集に依り充当し名護国民学校
にて遊撃戦遂行に必要なる戦技を付与する如く訓練す
昭和二十年一月軍命令に基づき戦斗配備を整えると共に第
二第三次に召集せる隊員の教育を謝花校羽地校にて実施
し戦力を強化せり昭和二十年三月二十三日甲号戦備下令
され本部(屋我地島及各村出身者)を多野岳に第一中隊
(名護町恩納村今帰仁村出身者)を名護岳に第二中隊(
羽地今帰仁村出身者)を多野岳に第三中隊(久志村本部
町出身者)を国頭支隊に配属し三〇二高地に第四中隊(
金武村本部町出身者)を久志岳に配属し至厳なる警戒裡
に戦備を完成す 四月一日敵は本島に上陸四月七日名護
湾に上陸するや第三中隊は乙羽岳及眞部山にて国頭支隊
と共に第一線の戦斗に各隊は夫〻戦斗地域に侵入せる敵
に対し果敢なる挺身遊撃戦を展開し軍主力の作戦に呼応
せり 四月下多野岳等の基地を欠陥せるも屈せず神出
鬼没或は夜間爆薬を抱いて敵陣深く潜入し或は白昼堂々
と特殊秘密兵器を以て攻撃し敵の心胆を寒からしめて以て
遊撃戦の本領を遺憾なく発揮せり六月下旬以降南部地区
の軍主力玉砕後に於ても真に護郷隊の特色を発揮し変幻
自在なる秘密遊撃戦を遂行中八月十五日終戦の詔勅を受
け部隊を解散す
戦没者氏名
伊波 興保 翁長 巌 玉城 浩 屋比久松雄 宮城 勇盛
伊波 幸正 翁長 久雄 沢岻 安順 前田 正幸 宮城 盛晃
仲間朝次郎 親川 源勇 仲井間宗文 真栄城主計 志伊良正善
伊芸 光和 大城 利雄 仲田 誠市 小橋川寿清 城間 政蔵
伊芸 秀一 大城 亀盛 仲宗根源一 幸喜 仁清 謝花 朝功
伊是名雅秀 大城 音松 仲村渠盛次 崎山 朝憲 諸喜田福勝
原国 和昌 大城 幸仁 仲間武五郎 岸本 憲一 新城 彦正
渡嘉敷綏吉 大城 幸義 長嶺 紀孝 岸本 弘 島袋 巌
当銘 由昭 大城 英治 上間 兼和 喜久村幸壮 島袋 光男
当山 幸男 大城 清計 久場 兼和 金城 廉武 比嘉 徳安
渡口 忠勇 湧川 幸善 久場川徳源 金城 義信 比嘉 憲英
渡久地政昭 嘉陽 宗吉 国吉 半蔵 金城 秀清 比嘉 定一
徳本 時雄 嘉陽 宗洋 久高 良夫 宮里 哲正 比嘉 常盛
知念 盛正 嘉陽 弘 具志堅興元 宮里 清光 諸田 善蔵
知名 定吉 与那城哲夫 山田 義英 宮城 治助 諸見里安昌
𩜙波 清 平良 文明 山城 繁治 宮城 勝源 菅江 敬三
小那覇安敬 高良 松三 屋部 憲用 宮城 文義 瑞慶村智俊
比嘉 盛功 比嘉 清一 上地 清定 嘉陽 宗仁 仲尾 宏清
石川 良一 金城 前光 木下 忠正 上里 善蔵 宮城 盛忠
(添碑本体右碑板)少年護郷隊之碑建立縁起
昭和十九年十月 当時一七、八才
だった少年が防衛召集令により
召集され護郷隊を編成し此所名護
小学校に誕生した。
猛訓練の末山原各地を転戦し郷土
防衛の大任を果たし散華された
英霊を慰霊顕彰せんと揺籃の地に
碑を建立するのが最も適地である
と元隊員の総意に基いて、
発祥の地名護小学校に建立した。
大本営直轄第一護郷隊隊長
村上治夫
昭和三十二年 竣工 |
所在地 |
沖縄県名護市大西2-2-22 名護市立名護小学校内 |
地図 |
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