本文へスキップ

 

     

京都KYOTO 


薩摩藩東征戦亡之碑

 写真  
 概要 建立年月日:旧暦明治2年5月
  建立者:薩摩藩
   規模:碑石 縦(中央部)177㎝・(肩)171㎝、横97㎝、厚さ40㎝
      台座(1 段目) 高さ40㎝・横125㎝・奥行き75㎝
      台座(2 段目) 高さ46㎝・横167㎝・奥行き113㎝
      台座(3 段目) 高さ55㎝・横216㎝・奥行き152㎝

周辺には、戦亡者銘碑1戦亡者銘碑2戦亡者銘碑3戦亡者銘碑4戦亡者銘碑5燈碑石燈籠1石燈籠2戦死者慰霊碑1戦死者慰霊碑2記録碑鳥居がある。
2017年5月4日、文書及びFaxにて同院住職より承諾の回答を得たうえで調査
 碑面 (正面)
   東征戦亡之碑

 慶応之役其
 皇運再盛之機乎而死于是役者其不幸中之幸者乎二年秋八月徳川慶喜上
 書解将軍職脱 京師入大阪城与会津城主松平容保桑名城主松平定敬隂
 蓄異図明年春正月遂挙兵分路北上将襲 京師我薩曁長州諸藩兵奉
 詔邀之伏見及鳥羽倶撃敗其先鋒賊軍望風而遁
皇上震怒乃   命熾仁親王為大総督帥諸藩兵二月発 京師由三道而進
 大軍抵江戸慶喜伏罪献城請降而余党数千猶據東叡山乃移兵撃屠之容保
 前既逃帰与桑名等兵嘨聚奥越之間以拒 官軍勢燄頻熾
 朝廷益発兵由東北海陸合勢討之深入敵地時我兵多為先鋒攻城野戦莫不
 捷者秋八月諸軍遂入会津攻若松容保窮蹙諸軍門降於是奥羽賊党尽服
 而定敬竟不知所之余賊遠逃北裔既而復屯集於箱館
 朝廷乃吏遣兵往勦之至今年夏辺陲悉平抑是役也我藩征行者凡八千余人
 戦亡者五百廿四人
 朝廷下
 詔悉優恤之而其死於 京畿者我公嚮己収骸葬之相国寺以立碑今又招東
 征戦亡者之魂臚列姓名於五碑立之 京師東福寺命臣惟宏紀其梗概鎸之
 石伏惟方叛乱初起之際海内人情涵〃然而
 天戈所麾元兇束手
 皇威所加荒陬臣順此固雖由
 皇家中興之隆運然非諸藩協心勤
 王将士宣力致死則戡大乱奏偉績曷至於若是之速乃桓碑深刻伝戦亡者之
 姓名於無窮嗚呼苟死者而有知可以瞑也矣
 明治二年次己已夏五月上浣
       薩摩儒官臣今藤惟宏謹撰   西郷隆盛謹書
(右面) 石工 権三郎
所在地 京都府京都市東山区東山区本町 東福寺即宗院の山上にある薩摩藩墓地
 地図  

コントロールキーを押しながらマウススクロールで地図の拡大縮小、地図左下のアイコンで地図と航空写真の切り替えができます。

ナビゲーション

中京大学 社会科学研究所

〒466-8666
名古屋市昭和区八事本町101-2