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台北第三高等女学校物語

台北第三高女について

 個人の記憶の記録化は、個人が個人の記憶を辿る記憶の旅でもある。個々人が経験した過去の記憶は、その場所、周辺の風景、その時の感情とともに記憶されている個人をその個人たるものにする。個人の記憶をインタビューという形で記録したものに、オーラルヒストリーがあるが、このオーラルヒストリーと同様に、当時の歴史を理解するうえで参考に供するものとなろう。
 2021年10月に「社研アーカイブ」を立ち上げ、12月から「戦争記念物アーカイブ」の掲載を開始した。翌2022年10月に、個人の「記憶のアーカイブ」の設置を考え、日本統治時代の台湾に創立した第三高等女学校について、当校を卒業した黄彬彬先生が自ら纏めた第三高女の記憶の記録を、掲載をすることにした。台湾史研究センターとしては、「記憶のアーカイブ」が、戦後の台湾を理解する材料の一つとなることを期待している。

         黄彬彬「台北第三高等女学校物語」(PDFファイルが開きます)
      

台北第三高女について

第三高女の起源は、以下の通りである。
 明治28年7月12日、学務部事務所を大稲埕から士林の芝山巌にある開漳聖王廟に移転し、士林街附近の本島人子弟を集めて国語の伝習を始めたのが台湾における教育の嚆矢となる。その後、芝山巌学堂が創設され、本学堂は、翌29年6月に、国語学校第一附属学校と改称され、さらに30年4月より本島人の初等教育の学校となるが、その頃はまだ男子生徒への教育のみであった。台湾総督府は、女子分教場開設のための準備を進め、同年5月25日に生徒37名が仮入学、翌26日から授業を開始したのが女子教育の端緒となる。
 明治31年には、台湾公学校令の施行により、9月末日に士林の第一附属学校は廃校となったが、女子分教場は士林に残留することで独立し、10月1日に、新たに国語学校第三附属学校として開校された。第三附属学校は、「本島ノ女子ニ普通学及手芸ヲ授クル」を目的として設置され、開校当初の職員は、町田則文国語学校長・本田茂吉第三附属学校主事教諭・木原スマ助教諭・呉鳳雇・呉文藻雇・木原豪書記の5名で、生徒は本科34名、手芸科46名の合計80名であった。こうして台湾唯一の女学校が創立されたのである。
 第三附属学校は、公学校と同程度の本科6年のほかに、手芸科3年を置き、年齢14歳以上のものを入学させた。この手芸科が、台湾における女子中等教育の嚆矢であり、第三高女の起源である。
 この起源については、昭和8年に刊行された台北第三高等女学校の『創立満三十年記念誌』(国立台湾図書館所蔵)を参考とした。
 また、黄彬彬先生から、下記の三冊を台湾史研究センターへ寄贈戴いた。ここに記することで感謝の意を表したい。

     


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